2015年9月12日土曜日

JazzTokyo

2015年7月29日、永福町sonoriumでのコンサートの批評をジャズ評論家の悠雅彦さんが書いて下さいました。



二十五絃筝の演奏家によるコンサートが近頃は珍しくなくなった。むしろこの数年はチラシなどで目に触れることが多い。ひところは野坂操壽の独壇場だった二十五絃筝の世界に、この楽器の魅力と可能性に注目する若い演奏家が輩出してきたことを示す、ある意味では広がり志向の現代的現象といってもよいだろう。
 山本亜美は野坂操壽について1年間学んだとある。二十五絃筝が持つほかの琴にはない豊かな表現力に魅惑されたものと見える。だが、師の野坂操壽のもとで学んだ二十五絃筝ならではの奏法や表現力を礎にしながらも、むしろやる気満々の溌剌さで、師とはまったく違う道を進んでいこうとしている彼女の演奏姿勢に、二十五絃筝の新しい未来を感じたのは決して私1人だけではないと思う。それだけこの二十五絃筝が持つ可能性は単に大きいというだけでなく、筝という楽器のなかでは歴史が浅いがゆえに、いやむしろそれだけにというべきか二十五絃筝の世界が切り開かれるのはこれからだと考えれば、この楽器にアプローチする若いアーティストが輩出する昨今の活況ぶりに注目するとともに、型破りとでもいうべき邦楽の新しい展開を期待せずにはいられない。山本亜美は二十五絃筝邦楽担い手として期待される演奏家。そのスピリット旺盛な演奏をこの夜初めて聴いた。
 このコンサートは彼女の初のソロ・アルバム発売記念をうたい、その吹込で共演した尺八の折本慶太と黒田京子を迎えてみずからプロデュースした。正直に申し上げると、私は山本亜美の演奏を聴いたことは過去にないが、実は彼女が黒田京子と共演することに注目したのだ。黒田京子は日本の新しいジャズ運動が軌道に乗り出した80年代以降の流れのなかで現れた新鋭の中で、ストレートかつ前向きに自己表現することにたけたピアニストだった。二十五絃筝の山本と、しばらく聴く機会がなかった黒田が、ここでいったいどんな共演をみせてくれるのかに興味をつのらせたというわけである。
 山本亜美が黒田京子と登場したのは休憩後の後半のステージ。演奏行為を通して表現することの切実さを黒田から学んだという山本は、この夜最も溌剌としてラプソディックでさえある、意志を音に反映させるインプロヴァイザーの片鱗を印象づけるプレイを繰り広げた。なるほど黒田との共演が山本の演奏展開に、前半のステージではうかがえなかったような音楽の活火山的ダイナミックスをもたらしていたようだ。それが随所でうかがえたその一方で山本本来のポエジーな柔らかさが心地よいアクセントを生み、ダイナミックな強烈さと対照的な柔らかさを印象づけるのだろうと合点した。察するところ、山本亜美は失敗を恐れず演奏行為としての冒険を楽しむ胆力をもっているらしい。後半のプログラムには(1)割れた皿(黒田京子)、(2)おきな草のうた(同)、(3)アネクメーネ(山本亜美)が並んだ。タイトルから想像される(1)での黒田の奏法とサウンド、その直線的でフリーな展開の爆発に彼女の意気軒昂ぶりがうかがえて,久しぶりに聴いた喜びも手伝ったためか新鮮だった。山本自作の「アネクメーネ」では、この1年半ほど前から黒田京子のライヴを聴いて感じ取ったプラスの効果が、たとえば短調のバラードの中でピアノと一体的にクレッシェンドする展開部分に現れたようで、最後のところでフリー・ジャズの自由な対話のように結ばれるところなどとともに,邦楽演奏としてはこの意外性が新鮮。これも二十五絃筝ならではの意外性だったといっていいかもしれない。懐の深い黒田の演奏に,決して後ろ向きにならない黒田の言動に、山本は進んで呼応したのだろう。欲を言えば、もっと積極果敢に、たとえば黒田と丁々発止のバトルを試みるぐらいの気合いを発揮して欲しかった気がする。次回を待つことにしよう。
 前半は田口和行作曲の声と二十五絃筝による、いわば山本亜美の弾き語り。二十五絃筝はギターからピアノやチェロ、ときにはベースまでの音域と表現をカバーするスケールを持つ。尺八の折本慶太と共演した「Rain」は、この日が初演という高橋久美子の作品。日本音楽集団のコンサートで意欲的な新作を発表している高橋の、日本人的な感性と傑出した作曲技法が結びついて生み出した抒情歌を聴く味わいを、山本亜美があたかも詩をうたうかのような雰囲気で演奏したのが印象的だった。
 アンコールで演奏したのが森亜紀が作曲して山本亜美に贈った最後の「つむぐ」。音を紡ぐ柔らかな幸せが聴く者を包み込む。彼女には二十五絃筝の新しい可能性を切りひらく今後の精進と活躍を期待したい。 

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